政治制度の改革、経済の成長、科学、医学は1人1人に豊かな生活をもたらしたが、人の心はいまだに病んでいます。
・みんなたった1日で態度が変わり、皆、僕を無視し始めました。掃除の時間はトイレで服を脱がされ、水を掛けられたりしました。また、お金の紛失はしょっちゅうありました。今では5,000円近く奪い取られました。
これは昨年11月27日、いじめを苦に自殺した、新潟県上越市春日中学一年生の伊藤準君(当時13歳)の遺書です。
いじめる者はゲームを楽しむように相手の心を傷つます。そこには思いやり、生命の尊厳などどこにもありません。
いじめる方はどうして思いやりをもって人に接してゆかねばならぬのか、知るよしもなく、いじめられる子供は、なぜ苦しみに耐えて生きねばならないのか、分からないのです。
打つ人も、打たれる人も共に、なぜ人命が尊いのかを知りません。
そしていじめが原因で、生きる望みを失った少年少女たちは、自ら若い命を散らしてゆく。これが第2の問題です。
■子供の心を救うには?
「年間32,000人」
これは平成15年の日本国内における年間の自殺者の総数です。1日90人、時間で3.7人もの人が自ら命を断ってゆきます。
さらに自殺未遂者や「こんな苦しいのならいっそのこと……」と思いながら生きている自殺予備軍を含めたらどれだけの数になるか、見当がつきません。
文部省はこうした現状を受け、平成7年12月15日、緊急の都道府県指定都市教育長会議を開催しました。
会議に際し、島村宜伸文相(当時)は、
・理由の如何を問わず絶対死んではいけないことを指導する
と発言、生徒の自殺を止めるよう全国の教育長に指示を出しました。
新聞、雑誌、テレビでも、「人生には恋愛など10代前半では知りえない喜びもある。自分のためにも死んではならない」「必要なのはいじめを超越する強さであり、自他共に命の大切さを教える教育なのだ」
といった声が上がりました。
生命の尊厳を扱う問題に対し、心ある人からいろいろな意見が飛び交いましたが、肝心な、「なぜ死んではならないのか」については全く触れられていませんでした。
教育制度の見直し、いじめ110番の開設、問題ある教師の追及などいろいろな手は施されています。
自殺しようとしている人に「死ぬな」と叫ぶ者とていい加減な気持ちで言っているのではありません。誠心誠意、死んではいけないと、止めているのです。
しかし、それは対症療法でしかなく、未だ自殺問題の真の解決方法とはなっていません。
いじめに悩む少年少女は今が苦しい。だから死ねば苦しみから逃れられると思い、自殺してゆきます。
そんな子供たちに、
「絶対死んではならない」
「一生懸命生きろ」
と叫んでも彼らには「もっと苦しめ」としか受け取れません。
一生懸命生きる目的を明らかにしないことには解答にならないのです。
■悲劇の、本当の原因
例えるなら人生は「歩く」「走る」「飛ぶ」「泳ぐ」ことです。
歩く際に最も大切なのは歩く目的地です。走る時も一番大事なのは目指すゴールはどこなのかです。泳ぐ、飛ぶ、いずれの場合もまず初めに目的があり、それから手段があります。
もし、歩くために歩き、走るために走っていたならば行き倒れになってしまいます。
泳ぐために泳いでいたら溺れるだけだし、着陸地のない飛行機には墜落が待っているだけです。
例をあげて考えてみましょう。飛行機がどこに陸地があるのか見当がつかない海上に不時着したとします。
そんなところで「一生懸命泳ぐのが大切なんだ」と闇雲に泳いでいたら、体力を消耗し溺れるだけです。機内の責任者の指示に従い、レスキュー隊の救助を待つのが賢明でしょう。
岸にたどり着くのが目的であるからまずどこに向かって泳ぐかをハッキリさせ、無駄な体力を消耗せぬようにしなければなりません。
山で遭難した場合はどうでしょうか。いざ、下山となった時、道を間違え、もと来た道が分からなくなってしまった。どんなに歩いても麓の村にたどり着けない。しかも徐々に日は暮れつつある。
こんな時、むやみに動き回ったらどうなるでしょうか。不案内なところで下手に歩き回ったりしたら、食料、体力が底をつき、歩き倒れになり、やがて熊の餌食になってしまいます。
いずれの場合もまず目的地があって、それから泳ぐ、歩くといった手段があるのです。手段のために動いていてもそれは必ず徒労に終わります。
魚料理店の水槽にはハマチやヒラメが悠々と泳いでいる。水槽の中で餌を与えられ、優雅そうに見えます。
しかし、彼らは客が注文すると網で掬われ、まな板の上に乗せられ、あっと言う間に料理されてしまうのです。どんなに水槽の中で一生懸命泳いでも、やがては食べられる運命です。
我々の人生もまたしかりです。いかに強く、たくましく生きたところで最後は無常の網に捕らえられ、死というまな板で料理されるのです。
もし一生懸命生きることが目的であるならば、死ぬために生きていることになってしまう。これでは悲劇あるのみではありませんか。