L11-苦しくともなぜ生きる/芥川龍之介

 科学技術は長足の進歩を遂げたが、先進国を中心に自殺は急増している。日本はその最たる例だ。人はなぜ、死を選ぶのか。芥川龍之介は、遺書で、次のように書いている。

「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない……僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。
(中略)君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。
(中略)少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」(或旧友へ送る手記)

 自殺の心理に、ひいては現代が直面する問題に、芥川は解明の糸口を与えていないだろうか。

 芥川龍之介は明治25年、新原敏三の長男として、東京に生まれた。
 生後八ヵ月の時、母・フクが突然、精神に異常をきたす。龍之介はフクの兄・芥川道章に預けられる。同家には独身を通した、フクの姉・フキがおり、我が子のように龍之介の面倒を見た。

 愛情に包まれ、芥川夫妻を両親と信じて育った龍之介だったが、子供らしくわがままを言える、自由な時代は続かなかった。十三歳で正式に子入りする前から、自分が"もらわれっ子"だと感づいていたのである。

 実母は、龍之介が11歳の時に世を去った。たまに訪れると、煙管で頭を殴られる始末で、龍之介は後年、「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と述懐している。


青春の挫折

 芥川は小学校の時から成績優秀で、一高(東大の前身)へ無試験で入学を許可された。二位の成績で卒業した後、東京帝国大学に進んだ。
 23歳の夏、才色兼備の吉田弥生と交際を始める。青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、英語も堪能だった。英文科在籍の龍之介と相性はぴったりで、順調に進めば結婚に行き着くはずだった。

 ところが弥生に、別の男性から縁談が舞い込む。龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているか気づいた。弥生に求婚したい。しかし養父母とフキに告げた途端、激しい反対にあった。相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが、反発を買ったといわれている。

 伯母のフキは夜通し泣いた。龍之介も泣いた。結局、龍之介があきらめる形となる。

 苦しみを、友に打ち明けた。

「私は随分苦しい目にあって来ました 又現にあいつつあります 如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか」

「イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない 周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」

 悲しみを紛らせようと、龍之介は遊郭に足を踏み入れた。しかし官能は悲哀を与えるだけだった。
 失恋直後に書いた『仙人』に、次のような言葉がある。

「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか」

 この問いは、終生、芥川から離れなかった。


一大転機 漱石との出会い

 芥川の人生を大きく変えたのは、文豪・夏目漱石との出会いだった。漱石が弟子と面会する「木曜会」に、参加するチャンスを得たのである。漱石の学識と人格は、龍之介をとらえて離さなかった。

 芥川は仲間と、雑誌『新思潮』を刊行する。創刊号で、とりわけ漱石の注目を引いたのは、芥川の『鼻』だった。漱石は期待の弟子に、愛情のこもった手紙を書く。それは、最大級の讃辞の羅列であった。

「大変面白いと思います」「上品な趣があります」「材料が非常に新らしいのが眼につきます」「文章が要領を得て能く整っています。敬服しました」「ああいうものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます」

 漱石から、予想外の激賞を受けた芥川は、華やかな文壇デビューを、大学卒業間近の25歳で果たしたのである。


やり切れぬ印象批判

 出る杭は打たれる。

『中央公論』掲載の『手巾』は、的外れな批判にさらされた。
「何を書こうとしたのか雑然として分かってこない」
「どこが面白いのかという気がする」
 本質に迫る建設的な批評なら首肯できる。だが、自分の感覚に合わないからと感情的に全面否定されたり、評者の勉強不足、時代認識のズレ、さらには単なるねたみで酷評されてはかなわない。

 若き芥川はいかに傷つき、動揺したか。時間と労力と熱意を込めて誠実にやり遂げた仕事が、数行で破壊される。あってはならぬことであった。龍之介はイラ立ち、心の中で怒った。
 だが正面切った反論には出ていない。創作に集中したのである。彼は賢かった。


教師生活と創作

 卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授になる。漱石の訃報を聞いたのは、その直後だった。出会いから1年しかたっていない。まだ漱石の指導が必要だったが、芥川は悲しみをバネに、教育、創作、読書に専心した。

 月給と原稿料で生活できる見通しがつき、27歳になった龍之介は、8歳下の塚本文と結婚する。結婚前は、忙しくても便りを忘れなかった。

「2人きりでいつまでもいつまでも話していたい気がします そうしてKissしてもいいでしょう いやならばよします この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛いい気がします(略)何よりも早く一しょになって仲よく暮らしましょう」

 しかし現実は煩わしかった。
「新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプ [注・心をつかむ]するかわからない」と、親友にこぼしている。
 1年後、芥川は毎日新聞の社員となり、筆1本の生活に入った。だが作品はマンネリ化し、危機を覚える。長編小説への意欲も、空回りして成功しなかった。


最大の落とし穴

 この頃の芥川は、社交的で、どちらかというと軽率な青年だった。新人作家の集まりで、既婚者である秀しげ子と出会う。当時の雑誌記事によれば、初対面でなれなれしく話しかけ、翌日には人の心をそそる手紙を出し、自著も同封したらしい。

 しげ子は、女性の少なかった文壇で華やかな存在だった。一時期、芥川は彼女の面影に悩まされ、密会を重ねた。しげ子は次第に利己的な本性を露わにし、龍之介にまといつくようになる。自宅まで押しかけることもしばしばだった。

 創作の苦しみ、女性問題に加え、さらに龍之介を悩ませたのは、長男の誕生である。芥川家にいた養父母とフキの三人は、孫を溺愛し、子育てに過剰に干渉した。世代差から来る方針の違いは、いかんともし難い。家庭でも人間関係に疲れた芥川は、自伝的小説『或阿呆の一生』で、長男出生を次のように表現している。


「何の為にこいつも生れてきたのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」

神経を病み、眠れぬ夜続く

 30歳の時、海外特派で中国に赴いた。帰国後は健康がすぐれず、特に下痢に悩まされ、神経衰弱も発症した。以後、持病との闘いが続く。
 34歳の冬、芥川が、当時の作家の代表作を集めた、『近代日本文芸読本』が刊行された。100人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るのは、並大抵の作業ではない。2年にわたる努力の結晶とはいえ、仕事の性質上、収入は少なかった。

 それにもかかわらず、「芥川は一人だけ儲けて、書斎を新築した」という噂が文壇に流れる。1人でも多くの作家を載せようと苦心したのに、評価されるどころか、当の作家たちから悪評を立てられたのだ。誠実が仇で報われ、芥川は深く傷ついた。この事件で神経衰弱が進み、眠れぬ夜が続く。睡眠薬を愛用し、虜となっていった。

 知人宛ての書簡に、

「オピアム[注・アヘン] 毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用い居り、なお又その為に痔が起れば座薬を用い居ります。中々楽ではありません」と書いている。

 創作活動も10年を迎え、題材の尽きた芥川が、胃を損じ腸を害し、神経を病みながら名声を維持するのは、容易ではなかった。


重なる不幸

 芥川最後の年となった昭和2年は、慌ただしく幕を開ける。1月4日、龍之介の姉・ヒサの家でボヤ騒ぎがあった。ヒサの夫・西川豊は、火災保険を狙った放火の嫌疑をかけられ、6日に鉄道自殺する。

 事件の処理に追われた芥川には、8人の扶養家族がいた。妻と三人の子供、養父母にフキ、そしてヒサの前夫の子である。そこに西川の遺族が加わり、12人になった。

 また、西川が抱えていた高利の借金が重くのしかかる。病気も忘れて東奔西走する中、芥川は猛烈な勢いで筆を走らせた。

「僕は多忙中ムヤミに書いている。婦人公論12枚、改造60枚、文藝春秋3枚、演劇新潮5枚、我ながら窮すれば通ずと思っている」(知人への手紙)

 考えたくない問題もあった。青年時代の罪が、尾を引いていたのである。秀しげ子は、妻子と静養中の芥川を、突然見舞いに来ることさえあった。「私の子、あなたに似ていない?」。彼女の言葉は龍之介の胸を引き裂き、滅びへの道を促進させた。遺稿『歯車』に悲痛な告白がある。

「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった」
「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」

精神的破産

 今や芥川は、気力と睡眠薬とで、辛うじて生を保っているに過ぎなかった。最後の力を振り絞る――だが、何のために?


「死にたがっているよりも生きることに飽きているのです」(或阿呆の一生)
「彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった」(同)

「僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」(歯車)

 これらの言葉を遺稿に残し、芥川龍之介は、36年の生涯を薬物自殺で閉じた。
 人生は、この傷つきやすい作家には重荷であった。
 再び遺書から引用しよう。

「僕はゆうべ或売笑婦と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きる為に生きている』我々人間の哀れさを感じた」(或旧友へ送る手記)

 人生は、多少の歓喜を除けば、多大な苦痛を与える「涙の谷」である。絶え間なき苦難と闘って、なぜ生きねばならぬのか。意味も目的も分からず、「生きるために生きる」以上の悲劇はあるまい。そんな人生を、「地獄よりも地獄的である」と芥川は表現した。
(侏儒の言葉)

 私たちが最も知りたい、また知らねばならないのが、人生の目的であろう。真の人生の目的を知った時、一切の悩みも苦しみも意味を持ち、それに向かって生きる時、すべての努力は報われるのだ。