P17-親鸞聖人と「なぜ生きる」

広島であったこと。

「なぜ生きる」と書かれた公開講座の案内を見て、大学教授か講師とおぼしき男性が、こう質問してきました。

「なぜ生きる、という問いかけ自体が分からない。人はみんな自分ではどうすることもできずに進んでいて、その中で、どう生きるのか、ということなら分かるが……」

もう一人は、お爺さん。

「なぜ生きるって、生まれてきたから生きているわけで、それになぜと言われても……このビラ、『どう』生きるの間違いでは?」

人は皆、生きることに一生懸命です。政治経済、科学医学芸術、これらはすべて、このつらい人生、どう生きれば、と人類が長い歴史の中で、悩み、苦闘した結果の所産です。しかし、「なぜ生きる」とは、誰も考えず、知ろうともせず、問題にされることもありませんでした。想像すらできなかったのです。

生きることを歩くことに例えると、歩き方に当たるのが「どう生きる」、目的地に当たるのが「なぜ生きる」。

飛行機でいうと、飛び方は「どう生きる」、着陸地が「なぜ生きる」です。


生きることを歩くことに例えると…
誰が考えても、着陸地のない飛行機は墜落の悲劇あるのみでしょう。

ところが、人生となると、途端に私たちの智恵は、「どう生きる」しか考えられなくなります。「人生に目的なんかないよ」と平然と言うのです。それは、「生まれたからしょうがない。死ぬまで生きるだけだよ」と言っているようなものではないでしょうか。

ちょうど、火鉢の縁を回り続ける尺取り虫のようなものです。オレは前進している、精一杯、進歩向上努力している、と思っていても、尺取虫は同じ所をただグルグル回っているだけ。やがて力尽き、火鉢の中にポトリと落ちる。それが事実です。

もし人生がそんなものなら、そこに何のよろこびがあり、どんな価値が見出せるのでしょうか。

「なぜ生きる」が分からねば、「どう生きる」の苦労は無意味になってしまいます。

「人身受け難し、今已に受く」(釈尊)"人間に生まれてよかった"の生命の歓喜など、あろうはずがありません。

全人類は、流転輪廻しています。その元凶は。

流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき(親鸞聖人)

苦悩の根元は、無明の闇だと、明言されています。

誰も知らない、驚くべきこの真実を、万人に明らかにされたのが、親鸞聖人という方なのです。

まさに世界の光と仰がずにおれません。