Z01-田辺元とハイデッガー親鸞聖人は、その生涯において数多くの書物を著されたが、その中で最も重要なのが畢生の大著・『教行信証』であることは言を待たない。 真宗では、ご本典、すなわち根本聖典として、多くの人々に尊崇されてきた。 しかしその影響力は、真宗界、仏教界だけに止まらず、実に、広く多岐にわたっている。 とりわけ我が国の知識人、文化人、思想家と言われる人たちの中には、『教行信証』に深い関心を寄せている人が多い。 その代表が、哲学者・田辺元であると言っていいだろう。
卒業後、科学、哲学論文を次々に発表。『科学概論』『数理哲学研究』などの著作によって、日本の近代哲学に科学的方法を導入したパイオニアとされている。 1919年、西田幾多郎の招きによって京大哲学科助教授に就任、27年、西田退官の後をうけて教授となった。 彼はまた、20世紀最大の哲学者の1人・実存哲学の大成者とされるドイツのハイデッガーとも親交があった。 1957年、晩年の田辺元は、ハイデッガーの推挽により、西ドイツ(当時)のフライブルク大学創立500年祭記念の名誉博士号を受け、さらに59年には、ハイデッガーの『70歳記念論文集』への寄稿を依頼されて、「死の弁証法」を執筆している。 ■ 西洋哲学を批判その田辺氏が、第2次世界大戦末期に親鸞聖人の教えに深い感銘を受け、京大で「懺悔道」と題する講演をし、戦後それを、『懺悔道としての哲学』という書にまとめた。 この本の中で田辺博士は、それまでの自己の哲学も含む西洋哲学全体に痛烈な批判を加えて、世間を驚かせている。 聖人の教えにめぐりあう直前の田辺氏は、哲学的思考に行き詰まっていた。西洋合理主義思考によって西田哲学をも超克しようとした彼は、己の哲学が、全くの無力であることに絶望する。 折しも、日本は、大東亜共栄圏の夢破れ、完膚なきまでの敗北がすでに眼前に迫っていた。 国内は混乱し、国家の前途はきわめて憂うべき状態であった。それがまた、彼の無力感を一層深めたであろうことは、想像に難くない。 ■ 哲学の無力に絶望その頃の心境を、彼は『懺悔道としての哲学』の中で、次のように書いている。 「私は、このような幾重にも重なる内外の苦に悩まされて日を過ごし、そのきわみ私は最早気根が尽き果てる思いをなし、哲学の如き高い仕事は、天稟のひくい私のような者のなすべき所でない、という絶望に陥らざるを得なかった」(序・2頁) 「私は、過去の哲学生活の結果として、自力の哲学的無力を悟らしめられ、今や全く自己の拠るべき哲学を喪ったものである。苛烈なる現実に処して迷う所なく、その指導に従って歴史を超貫する力を、不断にそれから汲み取ることが可能なる如き理性的哲学は私から消え去った。 人生の、あまりにも巨大で不合理な現実の前に、哲学の無力さを嘆き、絶望感にうちひしがれた彼の深い苦悩が文中にありありと現れている。 しかし、暗黒の底に沈みきったような彼の心に、新たな希望の光を与えたのが、ほかならぬ、親鸞聖人の主著『教行信証』だったのである。
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