Z02-感動の出会い『教行信証』

彼は、『教行信証』を精読し、その中に人間の真の救済を見出した。

その感動的な出会いを、次のように告白している。

「今や私は自ら懺悔道として哲学を他力的に踏み直す機会に、教行信証を精読して、始めてそれに対する理解の途を開かれたことを感じ、偉大なる先達として親鸞に対する感謝と仰慕とを新たにせられるに至った」
「私は今や、親鸞の指導に信頼して懺悔道を推進せしめられるに至ったことを、他力の恩寵として感謝せずにいられぬ」(序・6頁)
「親鸞の誘発的指導をもって懺悔道を推進し発展せしめたこと、私の疑う能わざる所であって、感謝を禁ずることができない」
「親鸞は、私の懺悔道哲学の師である。彼が還相して私を教化することは動かしがたき私の信仰である」(32頁)

親鸞聖人への深い尊敬と、沸き上がるような感謝とが、繰り返し述べられている。

当時の彼の哲学的思索の挫折、人類の前途に対する不安を知れば、親鸞聖人のみ教えに触れたこの感激もまた、よく理解できる。

『懺悔道としての哲学』とはまさしく、そのような状況下で著された、哲学者・田辺元による親鸞聖人のオマージュ(讃歌)といっていい書物なのである。

■ 哲学を再構築

田辺は、決して哲学的に浄土真宗の教義を解釈しようとはしなかった。哲学の無力さをいやというほど知らされた彼は、むしろ、聖人の教えを学び、かつ、それを通して従来の哲学を批判し、哲学の再構築を図ろうとしたのである。

それは、以下の文章に記されている。

「私は今、親鸞の展開した他力念仏の教理を哲学的に解釈して、浄土真宗の哲学を説くつもりではない。然らずしてその代わりに、哲学そのものを、懺悔の行を通じて他力信仰的に建て直そうと欲するのである。すなわち親鸞教を哲学的に解釈するのではなく、哲学を懺悔道として親鸞的に考え直し、彼の宗教において歩んだ途に従って哲学を踏み直そうと欲するのが、現在の私の念願である」(22頁)

■ 「懺悔」で読み解く

では彼は、『教行信証』をどう読み、どう理解したのであろうか。

「親鸞の信仰が全く悲痛なる懺悔を基調とするものなることは、従来といえども私の固く信ずる所であった」(序・5頁)

という彼は、「懺悔」というキーワードをもって『教行信証』を読み解こうとする。

「懺悔は、教行信証の一構成分であるのではなくして、却ってその全礎石であり、全背景である」(22頁)

「『悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし。傷むべし』という如き悲痛深刻なる述懐が、教行信証の教説の間に送出するのを見るならば、この書の全体が懺悔に裏付けられ懺悔に支持推進せられるものなることは些かの疑いを容れない。教行信証の領解の鍵は一に懺悔にある。自ら懺悔して悲歎述懐を親鸞と共にするものでなければ、この書を味読することはできないはずである」(23頁)

「教行信証の領解の鍵は一に懺悔にある」と喝破したのはさすがに慧眼である。