Z03-他力信仰と懺悔

ではその懺悔は、他力信仰といかなる関係があるのか。

この点について、彼は、こう述べる。

「懺悔と信心と歓喜(乃至感謝報恩)とは一体を成す」(8頁)

「絶対転換としての絶対否定の行、絶対無のはたらき、たる大非が、救済の大悲として信証せられるのが他力信仰の核心であるといえよう。(乃至)これに対してかかる大非即大悲という信仰が如何にして可能であるかと問われるならば、私は最早答えるべき所以を知らない。ただこれに対して一度懺悔を行ずべしという外ない」(9頁)

すべてが否定され尽くした(大非)まさにその時、大悲の救済が徹底する。この救済と懺悔とは、切り離すことのできない1つのものである、ということを述べている。

■ 人間とは何か

なぜ、救済と懺悔とが、これほど深くかかわっているのか。言い換えれば、私が救われるとき、どうして激しい懺悔の心が起きるのであろうか。

この問題は、人間とはいかなるものか、という問いかけと結びつく。

『懺悔道としての哲学』は、人間と、それを救済する絶対他力の働きを、次のように述べている。

「大無量寿経における阿弥陀如来の第18願において、正定聚の位を約束する往生必定の絶対救済の本願といえども、五逆と誹謗とを除くというただし書をつけている。如来の大悲本願たる他力を自己に僭取せんとする反逆者誹謗者は、決してそのまま救済にあずかることは出来ぬからである。ただ懺悔によって自己を放棄し存在資格を否定することを媒介としてのみ能く救済に入らしめられる。しかも懺悔は、この誹謗の罪も赦さるる救済の媒介なる不可思議を、懺悔者に体験せしめる。それに対しては、本願ぼこりどころではない、ただ不可思議力に対する戦慄と感謝とがあるばかりである」(15頁)

「懺悔は、いかなる煩悩罪障をも断ぜずして、救済に転換する。而して、いかなる救済も懺悔を媒介とすることなしには成立することがない」(16頁)

その、かつてない深い懺悔によって、阿弥陀如来の本願力による煩悩あるがままの救済が成立することを、驚嘆と感動をもって書き記している。

まさしく、哲学的表現で、聖人のみ教えの核心に迫りつつある部分だ。

こうした親鸞聖人の教えの理解に基づいて、彼は、それまでの哲学を、ことごとく批判していった。