Z04-西洋哲学批判■ カントの不徹底さ人間のもつ理性を批判したカントには、次のように、その不徹底さを衝く。 「まず何よりも先に争われないことは、カントが理性批判そのものを問題とすることなく、理性の自己批判が果して可能であるかどうかを究明しなかったことである」(41頁)
田辺は、理性批判の徹底の帰結を絶対批判と呼び、これ以外に救済の道はないと説く。 へーゲルも未だ、この絶対批判には及ばず、かろうじてキルケゴールが最も近い、と述べている。 親鸞聖人は、仏智他力によって法鏡の前に立たされ、ありのままの自己の姿を照らし抜かれたとき、悲痛な懺悔を告白しておられる。その無二の懺悔と同時に得られる救いこそが、真実の救済であると仰有っている。 ところが、西洋哲学には、こうした人間の罪悪に対する痛烈な反省、懺悔は、ほとんど見られない。罪悪感が、欠如しているのである。 人間の実態が分からない限り、どれだけ論理を駆使しても、真実の救済には遇えるはずがない。 ■ ニーチェの永劫回帰「神は死せり」と喝破し、徹底した無神論者だったニーチェ。彼は、西洋文明においてあらゆる価値の根源であった神を否定し、それにかわる新たな人生の価値を創造して、永劫回帰という生命の絶対肯定の哲学を打ち立てようとしたが成しえず、ついに発狂した。 そのニーチェについては、以下のように言う。 「真に懺悔を行ずる者は、不断に自己の存在資格を否定せしめられて、しかもその否定から肯定へと転ぜられる不可思議力を常に体験するのである。この恒常性がいわゆる不退に外ならない。その意味において、懺悔の構造は、循環的発展として無限である。いわゆる永劫回帰が正当に意味すべき超越的反復の意味において永劫回帰的であり、永遠の刹那充実である」(6頁)
現代は、価値の相対化、多様化、価値多元主義などと言われているが、その本質はニヒリズムである。誰もが、真に価値あるもの、命かけて悔いなきもの、すなわち人生の目的を知らずに、大海を彷徨う木の葉の如き一生で終わっている。 このニヒリズムをいかに克服するかが、20世紀最大のテーマであったが、その解決は、ついに21世紀の人類の課題となりそうである。 しかし、20世紀半ばにしてすでに、日本の一哲学者が 「親鸞聖人の教えこそ、ニヒリズムを超えた真理である」 と表明していることは、特筆に値しよう。 ■ ハイデッガーの限界20世紀を風靡した実存哲学の代表者・ハイデッガーについては、その功績を非常に高く評価しながらも、同時にその限界を、次のように指摘する。 「彼の時間存在論における未来的企画は、所詮、解釈了解に外ならず、真に絶対無からの行に基くものでないから、死に対する覚悟も有限性の自覚に止まり、進んで決死行を行ずる永遠の大行の信証ではないことも明である」(106頁) 世界最高の哲学であろうとも、所詮は観念で築いた理論にすぎず、死を超越した体験にはなりえないから、本当の救いには絶対にならないのだと言い切る。
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