Z05-最高の哲学

哲学の最高峰をなで斬りにしたあと、いよいよ彼は、『懺悔道としての哲学』の第6章に、親鸞聖人のみ教えの根基三願転入を論じ、第七章には、『観無量寿経』の三心釈(とりわけ深心、すなわち二種深信の解明)を詳説している。

かくして、結論をこう断定するのだ。

「本書の第六章、第七章に解釈を試みた三願転入や三心釈などは、救済の構造を究明した宗教哲学的思想としてほとんど無比ともいうべきものであると信ずる」(序・6頁)

「私は教行信証の宗教哲学をもって、西洋に匹儔を見出すこと困難なる如き深さをもつものと思惟せざるを得ないのである」(22頁)

親鸞聖人のみ教えこそが、最高無上の哲学であり、絶対無二の宗教であることを、学者の良心をかけて高らかに謳いあげている。

■ 全人類渇望の教え

それだけではない。

この著を執筆当時、すなわち敗戦間もないころには、勝利した連合国側の団結にも、すでにほころびが見え始めていた。

戦後の冷戦構造が徐々に形を現しつつあったころ、それらの将来を予見するかのような言葉を、こう記している。

「我国に、国家主義の清算を課する連合国中にも、民主主義と社会主義との協調は決して解決せられた事実ではなく、寧ろ今後に課せられた問題たるのであって、それが満足の解決に達せざる限り、多くの矛盾が内外からこれらの国々を悩ますことも避けがたい。民主主義国も社会主義国もまた、それぞれに懺悔すべきものをもつのである。もし我国が復興の世界歴史的使命をになうものありとすれば、この両主義のいずれでもなくして、しかも両者に自由に出入する第三の道を発見し実践するにあると考うべきではないか。果たしてしからば懺悔道はひとり我国民の哲学たるのみならず、人類の哲学でもあるのでなければならぬ。人類は総に懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか。世界歴史の転換期たる現代の哲学は、特に懺悔道であるべき理由をもつといっても、それは必ずしも我田引水ではあるまい」(序・16頁)

戦後の歴史は、まさしく米ソを中心とする冷戦が世界を二分し、それは今日、民主主義と市場経済を標榜する西側陣営の勝利に終わったとはいえ、いまだ人類は、真の平和と幸福を見出せずにいる。

この現状を、まさに見通していたかのごとき言ではないか。

かかる時こそ、懺悔道、すなわち親鸞聖人のみ教えに基づく哲学が、全世界に宣布されるべきではないのかと、田辺博士は訴えているのである。

そして冷戦終結後の今日、その存在、必要性は、ますます大きくなりつつあるのである。

■ 他力信心は二種深信

このように親鸞聖人を讃えて止まぬ田辺氏であるが、ただ、最後にどうしても、述べておかなければならないことがある。

この『懺悔道としての哲学』は、哲学者・田辺元が、誠心誠意、『教行信証』の真意を解明しようと努力した精華であり、哲学書としては無比の深さを持つものであるが、しかし残念ながら、親鸞聖人が生涯かけて明らかにされた他力真実の信心の全容を理解し切っているとは、言いがたい。

彼はあくまで、懺悔の側面から『教行信証』の解釈を試みたのである。それは、西洋哲学に最も欠如したものであるがゆえに、彼の哲学批判もまた、当然のごとく激烈なものになった。

しかし、懺悔だけでは、あくまで他力信心の一面に過ぎない。

無論きわめて重要な一面ではあるものの、この懺悔と表裏一体をなすもう1つの重要な面が、この書には、決定的に欠けているのである。

それは、何か。

歓喜である。

『教行信証』とは、親鸞聖人の他力信仰が余すところ無く語られた書であり、それはすなわち、懺悔と歓喜とが渾然一体となった希有の書なのである。

もちろん、田辺氏のいくつかの言及は散見される。しかし、親鸞聖人の「慶ばしきかなや」のわき上がるような生命の歓喜、「慶喜いよいよ至る」という人生の喜び、これらが、懺悔と同時に、かつ永遠にあることを理解しないかぎり、真の『教行信証』理解にはならないのだ。

それはすなわち、他力信心の本質・二種深信の真の理解に他ならない。

無論そこまでの要求は、ないものねだりである。
精緻な理論構成で聞こえた田辺元ですら、それは不可能であったろう。