C02-オウム事件の本質/松本智津夫被告への死刑判決より

平成16年2月27日、オウム真理教の「教祖」松本智津夫被告に死刑判決が下されました。

地下鉄サリン事件の惨劇から9年後の判決でしたが、各メディアでの大規模な報道は、多くの人々の関心の高さを物語っています。私たちはこの事件から、何を学ぶべきなのでしょうか。

1つは、親鸞聖人がすでに、「九十五種世をけがす」と言われているとおり、宗教には厳然と正邪があるということでしょう。「どの宗教もいいところがあるのだから、他を排斥するのはよくない」という主張は、宗教に対する無知からくるものであって、今回のオウム事件に関する初動捜査の遅れや、マスコミのまずい対応も、彼らの危険性にあまりにも幼稚な知識しか持たなかったことに、大きな要因があると言えないでしょうか。

第2に、オウムは断じて仏教ではない、という点も、改めて確認しておかねばなりません。

生命の尊厳を説き、人間として生まれた喜びを教示された釈尊の教えからは、殺人を肯定するオウムの教義など、絶対に容認できるものではないからです。

それどころか、最も大切な本尊をヒンズー教のシバ神としていたことや、一連の事件が、聖書の「ヨハネ黙示録」に書かれたハルマゲドン(神と悪魔の最終戦争)を引き起こし、教祖自身が日本の王となって支配する野望を果たすためであったことからすれば、仏教の仮面をかぶった邪教であったことは明白でしょう。

そして、最も重要な点は、なぜあれほど多くの若者がオウムに迷ったか、そして現在も、以前と変わらぬ教義を信奉するアーレフと改称した教団が1251人(2003年 教団が公安調査庁に報告した数)もの信者を抱えているのか、という疑問の解明ではないでしょうか。

今回の判決でも、多くの識者のコメントやマスコミの大報道でも、実は、この点は何も明らかにされていないと言っても過言ではありません。

判決の翌日、『読売』の一面に「オウムの呪縛どう解く」と題して社会部長が論考を寄せていますが、その結論はこうです。

底知れない恐怖、漠然とした不安は、オウム事件後、この社会に取りついて離れない。その意味では、オウムは、多かれ少なかれ私たちすべての心に住みついている。松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。一審判決は長い道のりの始まりに過ぎない。(平成16年2月28日 読売新聞朝刊)

いたずらに不安感を助長させるだけで、これでは何も語っていないのと同じです。

「何がオウムを生んだのか」と題した『朝日』の社説は次のとおりです。

知識や分別があると思われる人たちが教祖の指示に従ったのはなぜなのか。その不可解さが社会に衝撃を与えた。(中略)脱会して再び教団に戻る者がいれば、新たに入信する者もいる。教祖への帰依も変わらない。いま教団にいるのは、ほかに居場所がない人たちだ。社会から排除するだけでは解決にならない。そこにむずかしさがある。(中略)なぜ事件は起きたのか。なぜ教団がなくならないのか。私たちも考え続けなければなるまい。

解決の糸口さえも、つかめていないようです。これで、オピニオン・リーダーとしての新聞の責務を果たしうるのでしょうか。いやそれよりも、これが、日本の代表紙の論説委員たちの結論なのかと思うと、暗然たる思いに沈んでしまいます。

なぜなら、これではオウム信者のだれ1人説得することはできないでしょうし、第2、第3のオウムの悲劇を食い止めることはできないと確信するからです。

『毎日』の一面コラム・余録は、こう警鐘を鳴らしています。

(オウムから)抜け出せなくなってしまった多くの若者の存在は、この文明の何か根本的な欠陥の表れではないのか。

まさに、そのとおりでしょう。しかし、その根本的欠陥が何かは、余禄子も示し得ないようです。

事件が起きた当初、この問題の本質を、私はこう書きました。

大衆はノドの渇きに苦しんでいる。オウムの泥水を飲むなと、いくら言っても、飲料水を与えねば、他の泥水に走るだけだろう。
速に、清らかな水を徹底提供することこそ急務である。

「ノドの渇き」とは何か。これこそ、万人が持つ精神の飢渇であり、人生の目的が知りたいという、強烈な魂の欲求にほかなりません。

「何のために生まれてきたのか。生きているのか。苦しくとも生きねばならぬ、真の理由は何か」


「この社会のどこに、生きる意味があるというのだ」

人間存在の意味を問う、この根本問題に対し、世の学問も仕事も恋愛も、レジャーも快楽も、その他いかなる生きがいも、解答しえなかったのです。

いや、病気直しや出世、金儲けなど、現世のご利益を売り物にする新興宗教も、見てくればかりでまったく中身のない既成伝統教団も、真摯に人生の意義を求める人々には、何の魅力も感じられないでしょう。

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、と不条理の哲学で有名なアルベール・カミュは言っています。どうしても生きる目的を知りたい、いや知らなかったら生きていけないのが人間です。

意味なき人生に耐え切れない、人生の目的に渇き切った心は、オウムの泥水でもすすらずにいられなかった。

社会復帰を呼びかけても一向に応じない彼らの心は、「この社会のどこに、生きるに値するものがあるというのだ」と、反問しているに違いありません。

決して、オウムに迷った若者たちだけではない。世界一の豊かさと自由を享受しているかのようなこの日本で、毎年3万人以上もが自殺してゆく現実は、何を物語っているのでしょう。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(カミュ『シジフォスの神話』冒頭より)

なぜ生きる。人生の目的は何か。

この究極の問いに答ええない人類は、今もなお深い闇の中にいます。

親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、その解答を次のように明示されています。

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

"弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破る太陽であり、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。この船に乗ることこそが、人生の目的なのだ"と。

 

難度海(苦しみの人生)からの救出の叫びは、今なお充満しているのです。