C04-死刑で何が解決されたか/宅間守大阪の小学校で児童8人を殺害した宅間守死刑囚に、死刑確定から1年足らずという異例の早さで、刑が執行されました。 事件の重大性と被害者遺族の感情を考慮し、本人も早期執行を望んでいたことがその理由といわれています。 宅間守は事件直後の取り調べで、「たくさん殺せば確実に死刑になるし、道連れは多いほうがいい」と語っています。その後も一貫して反省のかけらも見せず、「幼稚園なら30人は殺せた。8人で死刑は少し無念」などの遺族感情を逆なでするような言葉を記していたと報道で知ると、確かに微塵の改悛の情も感じられません。 被害者の母親が、「法務相の判断に感謝。わが子を失って、宅間が生きているのは耐えられなかった」と語る気持ちは理解できます。 しかし、別の被害者の父親は、「贖罪の気持ちがあったのか確認できないまま執行され、複雑な心境。死刑で本人の希望がかなったのであれば意味がない」と言い、さらに、重傷を負った児童の母親は、「刑務所の中で罪を償い、ずっとしんどい思いで生き続けてほしかった」とも語っています。 カウンセリング心理学を教えるある大学教授は、「死刑執行で加害者の苦しみは終わるかもしれないが、遺族はその後も深い悲しみを整理していくことが必要」とコメントしています。
8人の幼い命を奪っておりながら、死刑という極刑をもってしても、本人に反省の気持ちを起こさせるどころか、「死ぬことは一番の快楽で、怖くない」とうそぶかせるに至っては、法の無力感と人生の不条理さだけが漂います。ご遺族の心情は、やりきれないことでしょう。 だが本当に、死んだら彼の苦しみは終わるのでしょうか。 仏教には、善因善果、悪因悪果、自因自果の厳然たる因果の道理から、まいたタネは必ず生えるし、原因が異なれば必ず結果は異なる、と説かれています。肉体の1度の死刑で、生前犯した罪がすべて消えてしまうことなど絶対にありえません。 宅間守は、死んで楽になれると考えていたかもしれませんが、因果応報、己の罪悪の結果は、死後、間違いなく受けていかねばならないのです。 因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず。(阿含経) 厳粛な因果律に狂いはありません。
また彼は、人生をくだらないと手記で書いているように、己の人生に何の価値も喜びも見いだせず、だから他人の命も尊く思えず、いわば身勝手な自殺の道連れとして、犯行に走ったともいえます。人生の無意味感が、動機の根底にあったことは想像に難くありません。 困難なことではありますが、三世十方を貫く因果の理法を根幹とする仏教、人生の目的と生命の尊厳を明らかに示された親鸞聖人の教えを伝える以外には、本当の救済はどこにもないのです。
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