H03-栄耀栄華の果て/藤原道長

「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思へば」(藤原道長)

平安時代の中期、藤原氏による摂関政治の頂点に立ったのが藤原道長です。

30年間、絶対権力の座にあり、わが世の春を謳歌した男でしたが、栄耀栄華のウラにも、すでに無常のカゲがつきまとっていました。

晩年になると、娘の寛子、嬉子、妍子が相ついで死に、彰子は出家、彼自身も、ひどい糖尿病から視力障害を起こしています。

道長にとって最も恐ろしいのは我が身の死でした。果たして、自分は極楽往生できるのか。不安はつのるばかり。

ついに名を行観と改め、仏道生活に入っています。

往生極楽の願望から、木像の阿弥陀如来の手に結んだ、赤青黄白黒の五色の糸に、必死にすがりついたほどでした。


「何ごとも夢まぼろしと思ひ知る 身にはうれひもよろこ
びもなし」(足利義政・写真は銀閣)
最後は、背中にできた乳房ほどのできものに、医師が針を刺して膿を出すと、道長は大きな悲鳴をあげ、その2日後にこの世を去ったといいます。

時流れ、室町の世――。

相つぐ天災、飢饉をかえりみず、放蕩三昧のあげくに、応仁の大乱をひき起こしたのは、足利八代将軍の義政でした。

政治に無関心、無責任な義政は、大乱を横目で見つつ、京都東山の山荘建築に没頭してゆきます。

その山荘一部の銀閣寺の建築にとりかかった年に、脳溢血が再発して半身不随になり翌年正月にあっけなく頓死。

晩年の歌は、

「何ごとも夢まぼろしと思ひ知る 身にはうれひもよろこびもなし」

まこと、人の命は、はかないものです。

「人間はただ電光朝露の夢幻の間の楽ぞかし。たとひまた栄華栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。(中略)これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり」(蓮如上人)