P07-ある無神論者の悲劇/正宗白鳥

「人間は誰でも1つや2つは絶対に、死ぬまで人に打明けたくない秘密があるものだ」(正宗白鳥)

辛辣なリアリスト、毒舌で知られる小説家、正宗白鳥が、18歳のころ、牧師、植村正久の洗礼を受けていたと言えば意外でしょうか。

しかし、やがてキリスト教を捨て、無神論者になった白鳥は、20代でこう言います。

「バイブルは、吾人が恐れ入るにも当らない、凡書である」

さらに、40代には、

「トルストイは、キリストとは比較にならない厚みのある人間なのだ。キリストの光明はお伽噺の光明で、トルストイの暗黒は大地と人心の底に渦を捲いている現実の暗黒である」

と書いています。

ところが、70代に入ると、

「私は断末魔の際、南無阿弥陀仏と唱えるだろうか。イエス・キリストに救いを求めるだろうか」

無神論者・正宗白鳥に、どういった心境の変化があったのでしょう。

80歳を越えた白鳥は、「1つの秘密」と題する文章を書いています。冒頭の一文は、その中のもの。
そういう秘密を自分も持っている。それは犯罪とか破廉恥とか、そういう次元のものではない、と言います。

「それは私自身の身心に関係したことなのだが、それを打ち明けるよりは、むしろ死を選ぼうという気持ちになる。私の心理が異様なのか。その秘密を思い出すと、自己嫌悪、自己侮蔑に身震いするのである」


「おお、神よ、なぜに私を見捨てるのか」
誰にも打ち明けられぬ、自己の内なる秘密に苦悩した白鳥は、若いころ崇拝した植村正久の娘・植村環を呼ぶのです。

底知れぬ不安、恐怖から、理性で否定したはずのキリスト教に救いを求めたところに、彼の悲劇がありました。

イエスでさえ、臨終には、

「おお、神よ、なぜに私を見捨てるのか」

と叫んでいるのですから、そんな神にいくら祈っても、心の平安はありえないでしょう。

「暗黒の死の洞門へ一歩々々足を進めている我々人間に、何の真の幸福があろうぞと私はつねに思っている。屠所の羊に異らない身でありながら、幸福を夢みるのは不思議なことだと思っている。それにも関わらず 、生きているうちは幸と不幸、快と不快の感に動かされない時は無い」

昭和37年10月28日、膵臓癌による衰弱のため、正宗白鳥は83年の生涯を閉じています。