P09-神は死せり/ニーチェ

「神は死せり」(ニーチェ)

天才と狂気は紙一重。

19世紀ドイツの哲学者・ニーチェの生涯は、まさにそうでした。

ギリシャ古典学を研究し、わずか25歳で大学教授になりながら、天才世に容れられず、彼が注目されたのは死後でした。

当時、圧倒的に力のあったキリスト教に対して、ニーチェは「神は死せり」と宣言、敢然と挑戦します。

キリスト教世界において、一切の存在に意味と価値を与えてきた神の死は、人間の存在をも、無意味、無価値なものとしました。

その上でニーチェは、自分の使命をこう表明します。

「人類の最高の自省の瞬間、すなわち人類が過去をながめ未来をながめ、偶然の支配、牧師の支配から脱し、『なにゆえに?』『なんのために?』という問いを、はじめて人類全体として発する大いなる正午を用意することにある」

神を否定したあと、改めて「人間は何のために生きるか」を模索したニーチェの解答が、「超人ツァラトゥストラ」だったのです。

「人生そのものには、何の意味もない。それは、醜悪で、不気味で、誤謬で、虚偽で、無であり、無目的なまま、永遠に同じ形でくり返されるだけである」。


「神は死せり」(ニーチェ)
これが、ニーチェの永劫回帰説です。

しかし、人生がどのように堪えがたいものであろうと、それ以外にありえないのだから、彼は肯定によって突破しようとします。

「これが生だったのか、よし、それならもう一度!」

この決断による突破こそ自己を解放すると、ニーチェは主張します。ニヒリズムの極限形態である永劫回帰は、同時に「生の肯定の最高形態」であるというのです。

目的なき人生を、何とか充実させようとして、「頑張れ」、「一生懸命生きよ」とあがく現代人の主張と、そっくりではありませんか。

果たして、そこに救済はあるのか。

彼自身は発狂し、廃人状態で20世紀を見ることなく、死を迎えています。