P10-祈らずとても、助くる神なきや/国木田独歩「祈らずとても、助くる神なきや」(国木田独歩) 『武蔵野』『春の鳥』などで知られる明治の小説家・国木田独歩は熱心なクリスチャンでした。 肺病で七転八倒の病床に、かつて洗礼を受けた牧師・植村正久を呼び、彼は心の煩悶を訴えました。 「あなたは、かつて初めて私の心を開いてくださった人。今、死を前に、私の心はまた閉ざされてしまった。どうかもう一度、あなたの鍵で私の心を開いてください」 植村牧師は言います。 「鍵を持っているのは、私ではありません。神です。祈ることです」 独歩は、ベッドの上で泣きました。 キリスト教では、最後まで神に祈れ、といいます。さすれば神は天国に救い給う、と。しかし、かの独歩ですら、祈り続けることはできなかったのです。
回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。それらが、自分にとって意味をもつ、ということに他なりません。つまり人間は、自分が意味づけした世界の中で生きているのです。 これは、目に見えるものだけではありません。観念や哲学、すべての学問も、自分自身で意味づけしてこそ、知識として働くのです。 国木田独歩にとって、神の存在は、祈る、という行為の対象として意味づけられていた。ところが、死を目前にした時、彼はとても祈ることができなかった。祈る心すらない自分だった。その時、彼の中の「神」は消えていった。 「祈らずとても、助くる神なきや」 こう言って、彼は息絶えました。 ハイデッガー流に言うと、人間の作った「世界内存在」の中の神は、臨終の嵐の前に消えてしまう。洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、死を前にしてはひとたまりもないのです。
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