T07-欲望はなくせるのか/ダライ・ラマ

夢の中に女性が出てくることはある。そんなときはすぐに、「私は僧侶だ」と自分に言い聞かせる。(ダライ・ラマ)

チベット仏教の指導者、ダライ・ラマが、自らの禁欲生活について語った言葉です。

「私は僧侶だ」と言い聞かせたら、夢の中の女性は消えてしまうのでしようか。是非、尋ねてみたいものです。厳しい修行の身であってもやはり煩悩は尽きないようですね。


欲に目鼻をつけたような我々人間に、欲をなくせ、
と言っても無理ではないか。写真は比叡山延暦寺。
ビートたけしがある時、多くの若い女性たちと禅宗の道場を訪れました。座禅を組んでいる若い男僧に向かって、「この娘たちを見て、何も思わないか?」と聞いたところ、その僧、何も言えなかったのが印象的でした。

欲に目鼻をつけたような我々人間に、欲をなくせ、と言っても無理なのでしょう。
歌の文句じゃありませんが、“わかっちゃいるけど、やめられない”のが人間というもの。

欲望を無視した人間観の共産主義を信奉している者でも、自分の欲望はどうにもならぬようです。

過去には、46歳の筋金入りの共産党員がアダルトビデオを万引きするという事件がありましたし、共産党の女性議員が、やはり万引きでつかまっています。

犯罪のない共産主義社会の実現が幻想にすぎなかったということは、秩序の乱れた、崩壊前の旧ソ連社会をみても明らかです。

フランスの思想家ラ・ロシュフーコーは、「頭はいつも、心にしてやられる」と皮肉な口調で述べています。

食べたい、飲みたい、遊びたい、楽がしたい、眠たい、以外に心が動かない。色を求め、名誉にあこがれ、金銭を追いかけ、限りなく欲望はひろがってゆく。

人間の悪性には、学問も教養、修養も歯が立たないのです。